はしか
これは、一時予防注射をやっていなかったことがあって、それが原因だと思いますが、本来はとっても怖い病気なんです。
はしかは、昔から大量死を招く病として恐れられてきました。
ヨーロッパでいうペストとかスペイン風邪(インフルエンザ)みたいな感じですね。
日本でも江戸時代末期、1862年の大流行のときには、江戸だけで死者26万人以上だといいますから、当時の人口を考えるとかなりの死亡者を出したことになります。
第一、はしかというは大変風邪と似た症状を起こしますね。(といいながら考えてみたら、結核も風邪と症状が似ているし、風邪は万病の元というのはこのことなんですかねえ)
とにかく熱が出る。それも高熱が出て、体に発疹が出てくる。なんか変だぞ……と思っているうちに体力が消耗して、手の施しようがなかったという人もかなりいたのではないでしょうか。
今はワクチンがあますから、もうそんな大流行は起きないでしょうが、悪くすれば死亡することもある病気ですから甘く見てはいけません。
実はこのはしか、先進国で絶滅していないのは日本だけらしくて、数年前にアメリガのある市で集団感染したときも、もとをたどると日本から野球留学に行った12歳の少年だったという話もあります。
まだまだ安心できない病気ですよ。
江戸っ子
江戸っ子という言葉が生まれたのは化政文化時代のようです。
元禄文化というのは、上方(京都大阪方面)が中心でしたが、化政文化は江戸が中心の文化です。
「いなせ」とか「粋」などという独特の気質を持つ町人が江戸っ子で、江戸で生まれ育った根生いの者のことをさします。
彼らを中心に江戸文化が生み出されました。
また、「三代続いた江戸っ子」という表現がありますが、これは「江戸っ子の気質になるには三代必要」という意味で、京都十代、江戸三代、大阪一代という具合に使われる言葉です。
「三代」にはとくにこれといった理由はないようですが、一説には、江戸幕府を完成させるのに、家康、秀忠、家光と三代かかったというところに由来しているというはなしもあります。
金が海外に流出した理由
江戸時代、日本でも金貨、銀貨は使われていましたが、その相場が海外とは違いました。
鎖国をしているうちは、金相場や銀相場はそれほど気にかけなくてもよいのですが、開国後はそうはいきません。
江戸時代、日本での金の価値は外国よりも安く、一方銀は外国よりも価値が高かったため、外国の銀貨を日本の金貨に交換する外国人が急増しました。
具体的には、金貨と銀貨の交換比率の差から、4ドルの銀貨が三枚の小判になり、これを外国で換金すると12ドルになったそうです。
こうして、日本国内の金はどんどん海外流出していきました。
その結果、幕府は金の流出を防ぐために金の含有率の低い粗悪な貨幣を鋳造することになり、国内の貨幣価値が下がりました。
貨幣価値が下がると物価は上昇します。これがインフレという状態です。
幕末はこうして特に庶民の生活が圧迫していきました。
井伊直弼の役割
大老であった井伊直弼は反対派を押し切って、朝廷の許可を得ないまま日米修好通商条約を結びました。
これは、当時かなりの非難を浴びました。
その非難は、結局桜田門外の変にまで及ぶわけです。
しかしながら、井伊直弼が自分の行ったことでこのような非難を浴びることが分からなかったのかというと、そんなことはありません。
井伊直弼としては、非難されることも、あるいは桜田門外の変のようなことが起こるかもしれないということも重々承知の上での決断だったのです。
つまりどういうことかと言いますと、朝廷は政治及び外交からながらく遠ざかっていましたから、世界の動向がわかりません。
そんな朝廷に許可を求めてもきっとNOを出されることが分かっていたと思われます。
あとは、黒船が来航してから、もう一刻の猶予もならないくらい開国の決断を迫られていたのです。
黒船も最初は沖にいましたが、幕府が開国を拒否しているうちに、測量を始め(海の深さを測って、どこまで船を陸に寄せられるかということを調べること)たりし始めたわけです。
そうなったら、もはや日本に自由は与えられなかった可能性のほうが高いとみた井伊直弼は独断で日米修好通商条約を結ぶことにしたわけです。
結果的に、日本はアメリカ合衆国の植民地にもならずにすみましたから、あとあとのことを考えると、井伊直弼の決断は英断だったと言われています。鎖国日本のなかでも、井伊直弼にはそれだけ国際感覚、外交感覚があったと評価される向きがあります。
政治を風刺した狂歌
狂歌というのは和歌にことばのもじりなどを入れることによって、滑稽味をもたせた短歌のことで、安永、天明期から江戸で大流行しました。
今でも狂歌をたしなむ方が多いですが、当時の文化人にも狂歌をたしなんだ人が多かったのです。
今でいうと、言葉遊びかシャレのようなものを文言に含ませて、世の中を風刺する歌もはやりました。
有名なのは下の三首ですね。教科書にも載っています。
1 田や沼やよごれた御代を改めて清らにすめる白河の水
注)「田や沼や」は田沼政治のこと。「すめる」は澄むと住むを掛けた言葉。「白河」は清らかな川=白河と松平定信の出身地である白河を掛けたもの。
2 世の中に蚊ほどうるさきものはなし文武といふて夜もねられず
注)「蚊ほど」はこれほどという意味の「かほど」に掛けている。文武は寛政の改革でおこなった「文武の奨励」と蚊が「ぶんぶと鳴く」とを掛けている。夜も寝られないくらいだから、そうとううざったいという意味ですね。
3 白河の清きに魚のすみかねてもとのにごりの田沼恋しき
注)「白河」は1と同じ。「魚」といいながら、これは人々のことを暗示していますね。「田沼」は田んぼの沼と田沼政治の「田沼」を掛けた言葉。
この三首は時系列順になっています。
つまり、
1では田沼の賄賂政治を正すために白河からやってきた松平定信に対する期待が伺えます。
2では、松平定信のおこなう寛政の改革は人が生活するに「は倹約倹約」「文武奨励」とうるさすぎて困るといった人々の心持ちですね。
3ではもう完全に今の時代(寛政の改革時)よりは田沼の時代(賄賂全盛でしめつけが少なかった時代)の方がなつかしいなあと、田沼政治を懐古しています。
学校では「田沼政治=賄賂政治だからよくない」という教え方をする教師もいるのですが、実はこれは少々見当はずれな考え方です。
たしかに賄賂で政治がおこなわれるのはよくないのですが、田沼時代におこなわれた「規制緩和」と「資本=金銭の重要性」というのは、資本主義を先取りしており、考え方としては進歩的だったのです。
どうも田沼意次はともかく、息子の田沼意知が私怨によって旗本佐野政言(善左衛門)に殿中御法度の刃傷ごとで死んだからか、評判が悪いですね。もちろん御法度を犯した浅野政言は切腹しました。
それでも、人々は「世直しの浅野大明神」ともてはやしたわけですが。
いつの時代でも世の中を混乱させるのはひとびとの無知や無責任だったりします。
世界の主要都市の人口
18世紀はじめの江戸の人口は、町方だけでも50万人以上いた。
これに加えて参勤交代で江戸にやってくる人々もいたわけなので、江戸の人口は最高で100万人を超えていたといわれる。
19世紀はじめのロンドンの人口が約86万人、パリが約55万人であったことを鑑みると、江戸は世界的な大都市であったことがわかる。
ちなみに当時のおもな都市人口は下の通り
大阪(1721年)38.2万人
京都(1715年)35.9万人
ウィーン(17世紀後半)13万人
アムステルダム(1650年)30万人
注)大阪と京都に関しては武家人口をのぞいたもの。またウィーンは神聖ローマ帝国ハプスブルグ家の領地(現オーストリア)、アムステルダムはオランダの都市。
浮世絵と印象派
ここ十数年前から、やっと温故知新で芸術的価値を再認識されてきた浮世絵ですが、江戸時代や明治時代初期も、あまり日本では芸術的価値としては低くみられていたようです。
ですから、今では美術館に入るくらいの価格で取引される浮世絵が、当時はヨーロッパ人に投げ売りされていたというのですから、やはり驚きです。
灯台下暗しというのはこのことで、その反対に西洋では浮世絵は大変な人気を誇っていたのです。
もちろん純粋にオリエンタルな雰囲気の浮世絵がヨーロッパで好まれたということもありますが、それだけでは話は終わりません。
絵画がお好きな方は、モネ、ルノアール、マネ、ゴッホ、ドガ、ミレー、セザンヌなどの湯名な画家をご存知のことと思います。
彼らの共通点は「印象派」であるということです。
「睡蓮」で有名なモネ、「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」で有名なルノアール、「ひまわり」のゴッホ、たくさんの踊り子たちを描いたドガ、「落ち穂拾い」のミレー、静物画を好んで描いたセザンヌ。みんな印象派といわれる人たちです。
この印象派の画家たちに影響を与えたのが、浮世絵なのです。
ですから、今でもヨーロッパには浮世絵のファンがたくさんいますし、コレクターもたくさんいます。
私たち日本人は、中学校や高校の美術の授業で美術史の勉強をしても、おもに西洋の画家のことしか学びません。ですから、印象派などは大変日本で有名なのです。
しかしながら、海外ですと、「日本人といえば浮世絵=日本人は浮世絵に詳しい」という公式がなりたってしまうのです。
ですから、一所懸命ヨーロッパの絵画の知識を入れて、オルセー美術館などに行っても、むこうでちょっと親しい知人ができたりすると、浮世絵に関する質問攻めにあって困るという話も聞いたことがあります。
やっぱり、まず最初は自分の国のことを学ばないといけないんだな、と浮世絵という日本芸術を通して考えさせられました。
赤門とは
赤門といえば東京大学の有名な門です。
みなさんご存知のように、赤門というのはもともと加賀藩前田家の上屋敷の御住居表御門のことでした。
今の赤門の場所というのは、当時の場所とちょっと違っていて、今の場所に後に移されたということですが、まあ前田家の上屋敷があのあたりにあったということは事実です。
もちろん加賀100石の上屋敷ですから江戸にあるのはもちろんなのですが、気にかかるのは「本郷もかねやすまでは江戸の内」という言葉です。
かねやすというお店は今でも丸ノ内線本郷三丁目駅の近くにありますが、「とりあえずここまでは江戸だよ」と言っているわけです。
とすると、本郷三丁目の駅からすぐそこにある赤門というのも、江戸の中ではぎりぎりの場所にあったということになります。
加賀100万石といっても、華のお江戸にくれば、江戸の端の方にひっそりとたたずむお屋敷だったみたいですね。
江戸時代の女性の地位
元ネタは、どこかの時代小説の作家さんの対談を斜め読みしただけなので。
窮屈な武士や大店の商人は別ですが、普通の江戸の町人たちの奥さんはけっこう自由にしていたようですね。
元々、江戸の町は職人の町なので、台所を預かる女性の地位は想像するほど低くなかったわけです。もちろん、働きに行こうと思っても限られていたりしたでしょうが、基本的に、それほど不自由はなかったという話を作家さんがしていました。
エレキテルと平賀源内
中でも、オランダで発明された摩擦起電器が「エレキテル」として有名ですね。
どこまで事実なのかわかりませんが、平賀源内自身は、原理を理解していずに、見よう見まねで作ったという話さえ残っています。
まあ、江戸の発明も、寛政の改革による出版規制などによって、これ以降、停滞するわけですが、見よう見まねであっても、これだけの発明をした人物が江戸時代に存在していたというのですから、驚きですよね。
現金掛け値なしとは
その言葉通り、掛け売りをしないという商売の方法ですね。
江戸の元禄時代に、江戸の呉服店三井越後屋がはじめたといわれている商法です。いわゆる江戸っ子の気質にあったのか、21世紀になった現在でも、根付いていますね。
大政奉還とは
このときの徳川慶喜は、形式的に政権を手放すだけで、公家には政治能力や統治能力がないので、いずれ自分のところに戻ってくると考えていたようですね。
時代ドラマなどでは、頼りないイメージの慶喜ですが、歴史家などからは高い評価があるようです。まあ、慶喜の思わくははずれたわけですが。。。

大政奉還の会議が行われた二条城、二の丸御殿。
生類憐みの令とは
江戸時代300年の中で、とりわけ評判が芳しくないのが、「生類憐れみの令」だと言われています。
少し前までは、徳川綱吉が跡継ぎがないことを憂いての施政だと言われていましたが、最近では、否定されているようですね。といいますか、最近では、徳川綱吉を再評価する動きもあって、「生類憐れみの令」も再評価されつつあります。
詳細については、書きませんが、動物愛護の観点からいうと、先取りだったと言われています。江戸の市民によって、おちょくられて、それが後の世に伝わって、評判が芳しくなくなったという側面もあったようですね。
江戸前の天ぷら
そんな料理の定番として、天ぷらが上げられます。
もちろん、西の天ぷらも美味しいですし、江戸の天ぷらを受け付けないという方の言いたいことも理解できます。
ただ、江戸といいますか、東京に来たときには、胡麻油で揚げられた天ぷらを食べてみたいですね。ちょこちょこと塩をつけて、食べる天ぷらは絶品です(言うまでもなく、天ぷら屋によって味は違いますが)。
取り敢えず、江戸の天ぷらとして、代表的な穴子の天ぷらなどを食べてみてはいかがでしょうか。
江戸時代の雑学の真偽
江戸時代の雑学については、時代小説や時代ドラマがネタ元になっている場合が少なくないようです。例えば、池波正太郎さんや司馬遼太郎さんの小説を読んで、江戸に思いを馳せたりする方は少なくないようですよね。
野暮と言えば野暮かもしれないのですが、小説を歴史そのものと勘違いをしないようにしてくださいね。
ちょっと江戸時代からはなれますが、三国志にしても、演出というか小説的な部分が多いのと同様に、時代小説もそういうものだと思って読んでください。
受験勉強などをしているお子さんに、時代小説の知識を教えないようにしてくださいね。雑談なら、よいのですが。
目黒のさんま
落語も創作ですので、これを事実とはいいませんが、目黒のさんま祭りなど開催されていますので、事実だと思っている方も多いようですね。
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目黒区の地図
本能寺の変。遺物、遺構が発見
江戸時代と直接の関係はないのですが、大発見があった様子です。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070807-00000075-mai-soci
詳細もかかれていないので、紹介だけにとどめておきますが、江戸マニアには興味深いものだと思います。
織田信長から豊臣秀吉への流れなんて、好きな方も多いと思いますので、ニュースに注目してみてください。