江戸時代の暦
これは、一日の時刻は太陽に合わせるのですが、ひと月は、文字通り月の満ち欠けに合わせて決めたものです。
つまり、一年中、日の出の時刻が明け六ツ、日の入りの時刻を暮れ六ツとするものです。
季節によって、日の出や日の入りの時間は違うので、一概に何時とは言えません。
電灯の明かりになれた現代の人々は「不便だな」と思われるでしょうが、電灯の明かりもなく、行灯の油もろうそくも高価だった当時は、太陽の動きに合わせて日々の生活を送る方が楽だったようです。
日の出や日の入りを基準に時間を考える方法は、古代エジプトにもありました。それと考え方は似ています。(ただし古代エジプトとは一年間の日数の数え方が違います)
現代の暦は、地球と太陽の位置で一年を決めるグレドリオ暦というものですが、江戸時代は先に書いたように太陰太陽暦でしたので、年によっては一年が十三ヶ月になる「閏月(うるうづき)」というのある年もありました。
ですから、一年中「明け六ツ」といえば日の出の頃なので同じ明るさ、同様に「暮れ六ツ」も日の入りの頃なので同じ明るさです。
しかもひと月は月の満ち欠けを基準に考えられていたので、十五日の夜には必ず満月が昇ることになります。
月の満ち欠けを基準にひと月を考える暦は、農業に適しており、現代でも種まきや田植え、刈り入れなどの農作業は旧暦を基準に行っている場合も少なくありません。
四角な卵と遊女の誠 あれば晦日に月が出る
という言葉がありますが、これは「そんなことは世の中にあるわけがない」ということです。むかしのひとはうまいことをいいましたね。
開国と経済の混乱
貿易を開始すると、日本は自国に足りない毛織物、綿織物、武器などを輸入する代わりに、生糸や茶などを輸出しました。
生糸の輸出はかなりの外貨を日本にもたらしました。
しかし、関税自主権がないので、国内の綿製品の産地は大打撃をうけます。
また、生糸や米は商人に買い占められて品不足になりました。その結果庶民の生活は苦しくなります。
また、金と銀の交換価値(金相場、銀相場)が国外と国内では差があったので、どんどん金が外国に流出してしまうということが起こりました。
すると、幕府は金の流出を防ぐために、粗悪な貨幣を鋳造することになります。
粗悪な貨幣が世の中で出回ることは、イコール貨幣の価値が下がることですから、結果的に物価が上昇し、ひどいインフレが引き起こされました。
現在でもそうですが、貨幣というのは国家経済の基盤をなすものですから、貨幣の価値が一定しないと国家経済がゆらぎ混乱してしまいます。ですから、今では通貨偽造罪というのは大変罪が重くなっています。貨幣というのはそれくら国家経済にとって重要なものなのです。
文化が地方に伝わる
元旦、節分、節句、盆などはもともと宮中の行事でした。
それが武家に広まり、それがまた庶民に広がっていくのがちょうど化政文化時代です。
また、善光寺や伊勢神宮など、遠くの神社に参詣したり、西国へ巡礼に行く人も増えました。
そのため、現在の名所ガイドマップのような「名所図絵」なども発行されるようになり、地方でも郷土色豊かな文化が栄えるようになりました。
寄席
寄席の語源は「人寄せ場」。当時はお寺や神社の境内の一部を使って落語を行っていたわけです。
関東ではお寺での落語というのは珍しいかもしれないですが、関西ではお寺で落語会を開くことは一般的のようです。
お寺にはちょうど50人から100人くらいを収容できる畳敷きの座敷がありますから、そこを貸してもらって落語会を開くわけです。
場所を借りるお金もそれほど高くないので、頻繁に落語会を開いているお寺さんもあるようですね。
娯楽の少なかった幕末から明治大正期には、町内に寄席が一軒はあったと言われています。
江戸時代の庶民も、貧しいは貧しいなりに娯楽を享受していたわけですね。
落語はもともと「座敷で語られる噺」というのは起源なので、現在の寄席の高座(舞台)も座敷をイメージしています。
舞台には屏風がおかれ、その前に座布団が一枚。落語家さんは座敷用の白足袋を履いて登場します。
噺は座敷で行われるわけですから、舞台が明るいのと同様、客席も明るいわけです。そのあたりが演劇などとはちがうところですね。
寄席は噺家とお客さんがいっしょになって、家の中の部屋(座敷)の情景を再現している形になっているわけです。こういったことを頭の隅に入れておくのも、寄席の楽しみ方のひとつかもしれません。
江戸っ子は小松菜に頭があがらない
俗に江戸っ子の好んだものとして江戸の五白と称されるものがあります。
それが白米・豆腐・大根・鯛(白身魚)・白魚の五つだとされるわけです。
さすが、天下の将軍様の城下町のことですから、食べ物も江戸時代以前よりはずいぶんと洗練されてきました。
ただし、この江戸の五白のおかげで江戸の業病とまでいわれた「脚気」が広まったことも有名です。
脚気というのは、実は昔からある病気で、西洋では大航海時代に流行ったとされる病気です。
西洋の場合は、船旅に果物や野菜が不足してそして脚気が引き起こされました。
しかし、それに気づくのが比較的早かったので、果物を多めに荷積みしたりして脚気を防ぐ努力をしたようです。
問題は江戸っ子。
なにしろ白米は「銀シャリ」といわれるくらい粋なもの。でもこれが脚気の一番の原因になるなんて、きっと当時の人は分からなかったのでしょう。
先にも述べたように、脚気はビタミンB系が足りなくなって起きる病気です。
そのビタミンBが、江戸っ子の愛する江戸の五白にはほとんど含まれていない。これが問題だったわけですね。
そこに登場したのが小松菜。
現在の江戸川区の小松川近くに鷹狩りにやってきた八代将軍徳川吉宗。
そのとき、神社で昼食に出された青菜のおいしさに感激し、地名の小松川から小松菜と名付けてしまったという話もありますが、真実のところはよくわからないです。
ただし、その青菜が小松菜と呼ばれ江戸っ子に広まり、「これはうまいぞ」ということでむしゃむしゃ食べていたら、あーら不思議、脚気が治ってしまったわ!! ということらしいのです。
まあ、何はともあれ、江戸っ子は小松菜には頭が上がらないというお話でした。
それにしても、この八代将軍吉宗公、この小松菜といい、さつまいも(青木昆陽に研究させ、栽培させた)といい、ずいぶんと食事情にめざとかったようですね。
江戸時代の庶民の食事について
豆腐屋さんがあって、そこは味も良く、値段も安かったので、客もたくさんあったようです。
で、あるとき、安い豆腐と一緒に少しだけ高い豆腐も売ってみたところ、ぜんぜん売れなくなってしまったようです。一緒に安い豆腐も売っていたわけなんですが、安い豆腐さえ売れなくなってしまったということです。
答えは至って簡単で、江戸の人たちはみえっぱりなので、高い豆腐を売っていると、それを買わずに安い豆腐を買いにくいということらしいのです。
金がないと言えないわけですね。
江戸時代の食事はファーストフード?
確かに、江戸は職人さんの町ですので、ゆっくりと食事をしていられるわけがないですね(関係ないですが、私の父も江戸前の漁師だったので、食事は早いです)。
しかし、ちょっとファーストフードとは違う気がします。職人の町だけあって、食べ物屋さんも、ちゃんと修行した人がやらないと流行らなかったわけです。
早く出すからと言って、手を抜いているわけではないんですね。むしろ、長い時間、食べ物のために修行するわけですので、ファーストフードとは違うような気がしますが
江戸時代は清潔だった
一般に、香水が発達している諸外国に比較して、昔から日本人は体臭も少なく、清潔だったと言われていますね。
もちろん、その国の文化がありますが、日本人が日本の文化を肯定しても許されると思いますので、江戸時代の優秀な部分について書いてみました。
江戸時代の女性
もちろん、平等だったなどと言うつもりは毛頭ありませんが、江戸時代の女性は、現代人の考えるよりも、ずっと活き活きとした生活を送っていたようです。
中でも、身分に緩い町人などについては、ずいぶんと逞しい女性についての記録が残っていたようですね。