江戸時代

江戸時代と東京の地図など

江戸時代と東京の地図など




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東京と江戸の地図を紹介します。江戸時代が大好きな方や、東京旅行など。
また、博物館だけではなく、東京土産やおいしいお店なども紹介しています。

江戸城と風水

Dr.コパさんのおかげでずいぶんと有名になった風水ですが、風水は意外と身近なものでもあるのです。


たとえば、鬼門というのがありますね。東北位を示すものですが、この位置を風水は重要視します。


平城京、平安京など日本古来の都は風水にのっとって建造されています。


方位の中では一番重用視される鬼門(東北位)ですが、いかに厄よけをするかというのもこの鬼門が重視されます。


江戸城もまたしかりで、鬼門方向に寛永寺を建造しました。


寛永寺の山号は「東叡山」ですが、これは「東の比叡山」という意味です。


比叡山は天台宗の総本山ですが、平安京の鬼門に位置します。


鬼門に寺社を建立することで、鬼門方向災厄がこちらに向かってくるのを防ぐ(そこでシャットアウトするということです)という「塞」の役割と、中心にあるもの(都や江戸城)に起こる災厄を代わりに受けてもらうという「依り代」の役目の両方があると思われます。


また、鬼門と同じような扱いをされるものとして裏鬼門(西南位)があります。


江戸城の裏鬼門には三縁山増上寺を作りました。


こうして江戸城は風水的な対策も怠りなく行っていたわけです。


ですから、地図で見ると、寛永寺と江戸城と増上寺は一直線に並ぶことになります。これは偶然ではなく、風水対策の自ずからの結果です。

東叡山寛永寺関連の地図

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入り鉄砲に出おんな

俗に入り鉄砲に出おんなといわれますが、これは徳川幕府の内情がそれほど穏やかではなかったということを示していると思います。


大名には親藩(徳川の血筋の大名)、譜代(関ヶ原の戦い以前から徳川方だった大名)、外様(関ヶ原の戦い以後徳川の臣下になった大名)と大きく三種類あります。


新藩や譜代というのは、あまり領地が広くありません。ですから、反乱を起こすことはまず不可能だといえたわけです。


問題は外様大名ですね。


加賀百万石といわれるように、大変生産性の高い領地をもち、かつ領地も広い藩です。このような藩は関ヶ原以前は豊臣方であった大名が大半です。


ですから、江戸と大阪という幕府の直轄地からは遠いところに封ぜられたわけです。


そしてかつ、国力を衰退させるために、参勤交代を課しましたから、外様大名はかなり財政的にもきつかったはずです。


そんな大名の中には反乱を企てるものも多かったのでしょう。


反乱を企てるためにはまずそのための道具を江戸に搬入します。


ですから、江戸に入ってくる鉄砲には幕府は神経を尖らせていたわけです。


そして、人質として妻子を江戸に滞在させましたから、その妻子たちが江戸を出て国に帰ろうとすることがあっては一大問題だったのです。


いっけん幕府の権威のもとで戦国の世も治まったかと思われますが、内情はそうでもなかったようです。


ですから、三代将軍家光のあとは、幕府は下り坂のいっぽうだったともいわれるゆえんです。


もっとも「出女」のほうは、幕末にはかなり緩和されました。これも幕府の権力の衰退をあらわしていますね。

伊能忠敬の日本地図

伊能忠敬は下総国(元千葉県佐原市)の商人で、名主でした。


50歳で家をゆずり、西洋の天文学や測量学などの勉強を始めました。


56歳から72歳までの間に、日本全国約4万kmを測量して、正確な日本地図を作りました。


現在のような測量器具はありませんから、苦心していろいろな道具を作りました。以下はそんな道具の一例です。



くさり……約30cm(たぶん1尺だと思われる。というのも1尺は30.3cmなので)の鉄棒を10本つないで距離を測った。


量程車……箱のようなものに車をつけ、車の回転で距離をはかる道具。車の周の長さが分かっていれば、何回転したかで距離を出すことができる。車を使った距離の測り方自体は古代エジプト時代から行われていた方法。


象限儀……車輪の一部を中心角90度くらいで切り取ったもので、これで星の高さを測った。星の高さを測ることで、緯度が計測できる。


彎か羅鍼(わんからしん)……方位をはかる道具



測量で使われた道具は、当時としてはかなり進んだもので、それも苦心して制作したものでした。


測量に際しては、沿道の諸藩から大勢の手伝いが出されました。幕府としても一大事業だったわけです。


そうやって作られた日本地図は現在の地図とほとんど変わらないほど正確でした。


伊能忠敬旧宅(マーク1)と伊能忠敬記念館(マーク2)


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江戸時代の貨幣

江戸時代に使われていた貨幣は大きく分けて、金貨、銀貨、銅貨に分かれます。


金貨の種類は以下のようになります。

一両
二分金
一分金
二朱金
一朱金

の五種類があり、それぞれの価値は下の通りです。

一両=二分金×2枚
  =一分金×4枚
  =二朱金×8枚
  =一朱金×16枚

そして、「大判小判がざっくざく」というくらいですから、大判というものもありました。


小判(一両)に対し、大判は額面十両です。

ただし、大判はその名の通り大きさも大きいので、おもに贈答用(賄賂とかか?)に使われたとのこと。


額面は一応十両ですが、実際に取引されるときは八両前後だったようです。


そして、銀貨。銀貨の種類と価値は下の通り。

一分銀
二朱銀
一朱銀

の三種類で、

一両=一分銀×4枚
  =二朱銀×8枚
  =一朱銀×16枚

となります。


また、銀貨の特徴として、秤量貨幣があったことがあげられます。


秤量貨幣とはその名の通り、天秤で量って使用する貨幣です。


これは丁銀と呼ばれる細長いものと、ボタン電池のような形の豆板銀がありました。


これらは重さがまちまちなので、一両=50から80枚だったようです。


金貨はおもに武士階級で使用されたものです。


池波正太郎の小説に剣客商売というものがありますが、この主人公はちょっと礼をはずむときによく二朱金を使っていますね。


銀貨は大阪の商人を中心に使われたものです。


また、庶民が使ったのは銅貨といわれるものです。


金一両=銀60匁=銭4,000文となり、銅貨だけで考えると

一両=4貫文
一貫文=1,000文

になります。


つなぎとそば粉を2:8でまぜて打ったそばを二八そばといいますが、これはそばが二八=十六ということで、だいたい十六文で食べられたという目安でもあります。


一両は今のいくらくらいの価値があるかということに関してはちょっとくらべづらいですね。


というのは、江戸時代は米が年貢だったので、米を基準にすると、その出来高とか生産量の向上で誤差が出てくるからです。


米の値段を目安にすると、江戸時代初期は1両=約7万円、幕末は1両=3千円から4千円くらいの価値だったようです。


ほかにも、給料を目安にしたり、そばの値段を目安にしたりして換算する方法もありますが、やはりずいぶんとばらつきが出てきます。

落語

現在の落語の原点となる笑い話は、戦国武将に仕えた御伽衆や知識人の残した書物の中にいくつも収められているそうです。


江戸時代も元禄文化時代になると、江戸や大阪、京都の街頭に「辻ばなし」が登場してきます。


辻ばなしとは、街頭で面白い話をしてお金を稼ぐ大道芸人のようなものと考えればよいでしょうか。


これが現在の噺家(落語家)の始まりとされています。


現代の寄席の原型もこのころできたようです。

江戸前の食事といえば

食べ物については、東京にもおいしいものがありますし京都にも北海道にも、各地方においしいものってあると思うんです。

どこの地方の食べ物が美味しいみたいなことはなくて、好みだと思うんですよね。


でも、ここは江戸時代サイトですし、私個人も、江戸前の寿司や蕎麦、それから天ぷらが好きだったりします。京都料理が好きな人でも、寿司や蕎麦と天ぷらだけは東京のものが好きだという方も多いようですね。

時代小説やドラマをみていても、蕎麦なんてよく出てきますね。まあ、残念なことに、最近では江戸前と言いながら、国産じゃない原料を使ったりしているそうですが。

江戸の大相撲

相撲の起源は古く、『日本書紀』にすでに記述があったりするわけですので、江戸時代にはすでに興行のカタチとしての相撲の歴史がはじまっていたと言われています。

興行としての相撲は、1768年に、回向院に小屋をつくり、神社や寺院の建立などの費用の寄付を募ったのがはじまりだといわれております。


もちろん、力自慢を見るという江戸の庶民の楽しみでもあったわけですね。

そのことを考えますと、日本と相撲の関係は深いのかもしれません。

関ヶ原の合戦の場所

江戸時代がいつから始まったかについても、学説がいくつかあるようです。


比較的有名な説ですと、関ヶ原の合戦勝利の1600年説と江戸幕府が開かれた1603年説があるようです。




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岐阜県不破郡関ヶ原町

最初の江戸地図

江戸の地図として、最初に実地測量して書かれたのが1658年「万治年間江戸実測図」だと言われています。


1658年という年号を聞いて、理由を想像できた人もいると思いますが、
1657年には、例の明暦の大火があったわけなんです。


「万治年間江戸実測図」は時の将軍の家綱が、この火事によって江戸に膨大な被害が出たことを反省して、作らせたと言われています。

ちなみに、その他にも、江戸地図についての伝説はありますので、興味のある方は、調べてみてください。地図ひとつとっても、いろいろな伝説や由来があるんですね。

切絵図

切絵図(きりえず)とは、幕末の人々がよく利用したとされている公分地図のことです。近江屋吾平が最初に江戸切絵図シリーズの出版をはじめたと言われています。


ちなみに、この近江屋は日用雑貨を扱う荒物屋が本業だったとか。

まあ当時のことなので、言い伝えなのかもしれませんが、持ち運びに便利な地図をその方面では素人の荒物屋が作るというのも、なかなかロマンがあるような気がしますね。


ちなみに、WEB上にも切絵図を見ることができます。コレクションしている方も少なくないようですね。


江戸は八百八町あったのか

江戸は八百八町あったのかという質問がありますが、

これは嘘でもあり、本当でもあるわけです。


知っている方も多いと思いますが、江戸は文化の進歩によって、江戸の町も拡大していったわけです。実際に八百八町だったのは、1658年ごろという話ですね(東京を江戸の古地図で歩く本)。


その後、拡大していき、倍の数の町ができたそうです。


日本語ではよくある話なのですが、八百屋と同じような感覚で、「八」はたくさんをあらわすものだと思うくらいでよいみたいですね。


江戸はそれくらい栄えていたんだ、という修飾句ではないでしょうか。


それまで京都中心の文化だった日本で、ここまで江戸が栄えたところに徳川家康の実力が伺えますね。

世界的にも、江戸は稀有な町だったようです。


江戸時代の浮世絵や、現在でも人気の江戸切り子などを見れば、江戸の文化がどれくらい力のあったものなのかが分かると思いますが。