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<title>江戸時代</title>
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<description>江戸時代と東京の地図など</description>
<language>ja</language>
<copyright>Copyright 2008</copyright>
<lastBuildDate>Sun, 15 Sep 2030 03:24:07 +0900</lastBuildDate>

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<title>東京の地図から江戸を</title>
<description><![CDATA[21世紀になった現在でも、東京の町には江戸時代のなごりがあります。
<br /><br />
例えば、地名なども、当時のなごりを残していますね。
<br /><br />
江戸時代が好きな方は、現在の東京の地図を見ながら、江戸の文化に思いを馳せたりするようです。実際に城の跡などは、しっかりと残っていますので。
<br /><br />
江戸城中心部の航空写真<br />
<img alt="江戸城中心部の航空写真" src="http://tpip.info/300px-Imperial_place_Japan_1979_air.jpg" width="300" height="375" />
<br />
出典：「国土画像情報（カラー空中写真）国土交通省」

]]></description>
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<pubDate>Sun, 15 Sep 2030 03:24:07 +0900</pubDate>
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<item>
<title>江戸東京博物館の地図</title>
<description><![CDATA[江戸時代や時代小説が好きな人に大人気の博物館を紹介します。
<br /><br />
<a href="http://maps.google.co.jp/maps?f=q&hl=ja&geocode=&q=%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%A2%A8%E7%94%B0%E5%8C%BA%E6%A8%AA%E7%B6%B21%EF%BC%8D4%EF%BC%8D1&ie=UTF8&ll=35.696724,139.795854&spn=0.008103,0.010858&z=16&iwloc=addr&om=1" target="_blank">江戸東京博物館</a>の地図(所在地)です。
<br /><br />
<iframe src="http://www.panoramio.com/plugin.php?lt=35.696724&ln=139.795854&z=1&k=1" width="500px" height="500px"></iframe><br />
<br />〒130－0015　東京都墨田区横網1－4－1
<br /><br />
ちゃんこ鍋などで有名なお店も多いですね。江戸の文化に触れたあとで、江戸前の味覚を楽しむことができます。ちゃんこ目当てで博物館がついでになってしまう人も多いとか。
<br /><br />
人気の高い博物館ですね。もちろん、江戸前のお料理もおすすめですが(笑)
<br /><br />
<br /><br />
思いを馳せるだけではなく、旅行などの下調べにも利用できる地図です。]]></description>
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<pubDate>Sun, 26 Jul 2009 17:42:39 +0900</pubDate>
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<title>長命寺桜もち</title>
<description><![CDATA[長命寺桜もちは、１７１７年創業以来、変わらぬ味を作り続けて３００年の老舗です。<br /><br /><br />

<iframe width="425" height="350" frameborder="0" scrolling="no" marginheight="0" marginwidth="0" src="http://maps.google.co.jp/maps?near=%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%A2%A8%E7%94%B0%E5%8C%BA%E5%90%91%E5%B3%B6%EF%BC%95%E4%B8%81%E7%9B%AE%EF%BC%91%E2%88%92%EF%BC%91%EF%BC%94&amp;geocode=&amp;q=%E9%95%B7%E5%91%BD%E5%AF%BA%E6%A1%9C%E3%82%82%E3%81%A1&amp;f=l&amp;sll=35.718573,139.808772&amp;sspn=0.007996,0.015321&amp;ie=UTF8&amp;ll=35.727632,139.812956&amp;spn=0.015992,0.030642&amp;z=14&amp;iwloc=A&amp;cid=35718018,139808779,3120978164927045831&amp;output=embed&amp;s=AARTsJrVLBQkD5SqjPeWsWSb5qOn5KY_Kw"></iframe><br /><small><a href="http://maps.google.co.jp/maps?near=%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%A2%A8%E7%94%B0%E5%8C%BA%E5%90%91%E5%B3%B6%EF%BC%95%E4%B8%81%E7%9B%AE%EF%BC%91%E2%88%92%EF%BC%91%EF%BC%94&amp;geocode=&amp;q=%E9%95%B7%E5%91%BD%E5%AF%BA%E6%A1%9C%E3%82%82%E3%81%A1&amp;f=l&amp;sll=35.718573,139.808772&amp;sspn=0.007996,0.015321&amp;ie=UTF8&amp;ll=35.727632,139.812956&amp;spn=0.015992,0.030642&amp;z=14&amp;iwloc=A&amp;cid=35718018,139808779,3120978164927045831&amp;source=embed" style="color:#0000FF;text-align:left">大きな地図で見る</a></small><br /><br /><br />


長命寺桜もちの創業者が長命寺で集めた桜の葉でもちをくるんで売り出したところ、花見客の目に留まるようになり、それ以来桜もちがこのお店の名物になったとのこと。<br /><br /><br />



こしあんは北海道の小豆を使用し、桜の葉は伊豆から取り寄せた若木の葉を３枚使用しているそうです。<br /><br /><br />



長命寺桜もちは、時代小説に登場することも多く、「はやぶさ新八御用帳（四）鬼勘の娘」の４４ページにも登場しています。]]></description>
<link>http://tpip.info/2008/04/post_77.html</link>
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<pubDate>Thu, 17 Apr 2008 22:25:54 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>江戸時代の暦</title>
<description><![CDATA[江戸時代は太陰太陽暦を使用していました。<br /><br /><br />

これは、一日の時刻は太陽に合わせるのですが、ひと月は、文字通り月の満ち欠けに合わせて決めたものです。<br /><br /><br />

つまり、一年中、日の出の時刻が明け六ツ、日の入りの時刻を暮れ六ツとするものです。<br /><br /><br />

季節によって、日の出や日の入りの時間は違うので、一概に何時とは言えません。<br /><br /><br />

電灯の明かりになれた現代の人々は「不便だな」と思われるでしょうが、電灯の明かりもなく、行灯の油もろうそくも高価だった当時は、太陽の動きに合わせて日々の生活を送る方が楽だったようです。<br /><br /><br />

日の出や日の入りを基準に時間を考える方法は、古代エジプトにもありました。それと考え方は似ています。（ただし古代エジプトとは一年間の日数の数え方が違います）<br /><br /><br />

現代の暦は、地球と太陽の位置で一年を決めるグレドリオ暦というものですが、江戸時代は先に書いたように太陰太陽暦でしたので、年によっては一年が十三ヶ月になる「閏月（うるうづき）」というのある年もありました。<br /><br /><br />

ですから、一年中「明け六ツ」といえば日の出の頃なので同じ明るさ、同様に「暮れ六ツ」も日の入りの頃なので同じ明るさです。<br /><br /><br />

しかもひと月は月の満ち欠けを基準に考えられていたので、十五日の夜には必ず満月が昇ることになります。<br /><br /><br />

月の満ち欠けを基準にひと月を考える暦は、農業に適しており、現代でも種まきや田植え、刈り入れなどの農作業は旧暦を基準に行っている場合も少なくありません。<br /><br /><br />

四角な卵と遊女の誠　あれば晦日に月が出る<br /><br /><br />

という言葉がありますが、これは「そんなことは世の中にあるわけがない」ということです。むかしのひとはうまいことをいいましたね。]]></description>
<link>http://tpip.info/2008/04/post_76.html</link>
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<pubDate>Thu, 17 Apr 2008 20:23:58 +0900</pubDate>
</item>
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<title>江戸城と風水</title>
<description><![CDATA[Dr.コパさんのおかげでずいぶんと有名になった風水ですが、風水は意外と身近なものでもあるのです。<br /><br />


たとえば、鬼門というのがありますね。東北位を示すものですが、この位置を風水は重要視します。<br /><br />


平城京、平安京など日本古来の都は風水にのっとって建造されています。<br /><br />


方位の中では一番重用視される鬼門（東北位）ですが、いかに厄よけをするかというのもこの鬼門が重視されます。<br /><br />


江戸城もまたしかりで、鬼門方向に寛永寺を建造しました。<br /><br />


寛永寺の山号は「東叡山」ですが、これは「東の比叡山」という意味です。<br /><br />


比叡山は天台宗の総本山ですが、平安京の鬼門に位置します。<br /><br />


鬼門に寺社を建立することで、鬼門方向災厄がこちらに向かってくるのを防ぐ（そこでシャットアウトするということです）という「塞」の役割と、中心にあるもの（都や江戸城）に起こる災厄を代わりに受けてもらうという「依り代」の役目の両方があると思われます。<br /><br />


また、鬼門と同じような扱いをされるものとして裏鬼門（西南位）があります。<br /><br />


江戸城の裏鬼門には三縁山増上寺を作りました。<br /><br />


こうして江戸城は風水的な対策も怠りなく行っていたわけです。<br /><br />


ですから、地図で見ると、寛永寺と江戸城と増上寺は一直線に並ぶことになります。これは偶然ではなく、風水対策の自ずからの結果です。
<br />

東叡山寛永寺関連の地図
<iframe width="425" height="350" frameborder="0" scrolling="no" marginheight="0" marginwidth="0" src="http://maps.google.co.jp/maps?near=%2B35%C2%B0+42'+54.45%22,+%2B139%C2%B0+46'+21.83%22+(35.715125,+139.772731)&amp;geocode=&amp;q=%E6%9D%B1%E5%8F%A1%E5%B1%B1%E5%AF%9B%E6%B0%B8%E5%AF%BA&amp;f=l&amp;ie=UTF8&amp;ll=35.715125,139.772731&amp;spn=0.013536,0.012763&amp;t=k&amp;output=embed&amp;s=AARTsJqPDltOYyHw_0PBwcaJbPPdVJQO-Q"></iframe><br /><small><a href="http://maps.google.co.jp/maps?near=%2B35%C2%B0+42'+54.45%22,+%2B139%C2%B0+46'+21.83%22+(35.715125,+139.772731)&amp;geocode=&amp;q=%E6%9D%B1%E5%8F%A1%E5%B1%B1%E5%AF%9B%E6%B0%B8%E5%AF%BA&amp;f=l&amp;ie=UTF8&amp;ll=35.715125,139.772731&amp;spn=0.013536,0.012763&amp;t=k&amp;source=embed" style="color:#0000FF;text-align:left">大きな地図で見る</a></small>]]></description>
<link>http://tpip.info/2008/04/post_75.html</link>
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<pubDate>Mon, 07 Apr 2008 07:12:48 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>擬宝珠</title>
<description><![CDATA[てんぷらの指を擬宝珠へひきなすり
<br /><br />
という古川柳があります。
<br /><br />
この「擬宝珠」なのですが、なんのことかわかりますか？
<br /><br />
これは橋のこの擬宝珠は宝珠頭（ほうじゅがしら）などと言われ、単なる柱頭部の飾りとして用いられるものです。
<br /><br />

神社仏閣の高欄や橋の欄干に丸くて先のとがったネギの花の形のものがついていますね。あれのことです。
<br /><br />

もっともあれはタマネギではなくて、火炎が燃え上がっているようすを示しているもので、仏教由来のものです。
<br /><br />

宝珠（ほうじゅ）を持つ姿の仏像や仏画というのがありますね。あれのことなんです。
<br /><br />
 
擬宝珠とは文字通りこの宝珠を擬したものです。
<br /><br />

この擬宝珠にてんぷらの指を引きなすっているということは、この近くでてんぷらを食べたということがわかります。
<br /><br />

江戸には擬宝珠ある橋は京橋か日本橋の二つしかありませんから、その橋のたもとで天麩羅屋台が商売をしていたといた様子がわかります。
<br /><br />

江戸では「擬宝珠から擬宝珠まで」というと、当時一番にぎやかだった中心地のことをさします。
<br /><br />

ちなみに当時、天ぷらは串に刺して食べる屋台のファーストフードでした。
<br /><br />

だいたい一串十文ほどの値段だったようです。]]></description>
<link>http://tpip.info/2008/03/post_74.html</link>
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<pubDate>Thu, 13 Mar 2008 14:44:29 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>はしか</title>
<description><![CDATA[はしかは子供が罹るものと思っていたら、最近は大人もずいぶん罹っているみたいですよね。<br /><br /><br />


これは、一時予防注射をやっていなかったことがあって、それが原因だと思いますが、本来はとっても怖い病気なんです。<br /><br /><br />


はしかは、昔から大量死を招く病として恐れられてきました。<br /><br /><br />


ヨーロッパでいうペストとかスペイン風邪（インフルエンザ）みたいな感じですね。<br /><br /><br />


日本でも江戸時代末期、1862年の大流行のときには、江戸だけで死者26万人以上だといいますから、当時の人口を考えるとかなりの死亡者を出したことになります。<br /><br /><br />


第一、はしかというは大変風邪と似た症状を起こしますね。（といいながら考えてみたら、結核も風邪と症状が似ているし、風邪は万病の元というのはこのことなんですかねえ）<br /><br /><br />


とにかく熱が出る。それも高熱が出て、体に発疹が出てくる。なんか変だぞ……と思っているうちに体力が消耗して、手の施しようがなかったという人もかなりいたのではないでしょうか。<br /><br /><br />


今はワクチンがあますから、もうそんな大流行は起きないでしょうが、悪くすれば死亡することもある病気ですから甘く見てはいけません。<br /><br /><br />


実はこのはしか、先進国で絶滅していないのは日本だけらしくて、数年前にアメリガのある市で集団感染したときも、もとをたどると日本から野球留学に行った１２歳の少年だったという話もあります。<br /><br /><br />


まだまだ安心できない病気ですよ。]]></description>
<link>http://tpip.info/2008/02/post_73.html</link>
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<pubDate>Fri, 29 Feb 2008 20:40:40 +0900</pubDate>
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<title>入り鉄砲に出おんな</title>
<description><![CDATA[俗に入り鉄砲に出おんなといわれますが、これは徳川幕府の内情がそれほど穏やかではなかったということを示していると思います。<br /><br /><br />


大名には親藩（徳川の血筋の大名）、譜代（関ヶ原の戦い以前から徳川方だった大名）、外様（関ヶ原の戦い以後徳川の臣下になった大名）と大きく三種類あります。<br /><br /><br />


新藩や譜代というのは、あまり領地が広くありません。ですから、反乱を起こすことはまず不可能だといえたわけです。<br /><br /><br />


問題は外様大名ですね。<br /><br /><br />


加賀百万石といわれるように、大変生産性の高い領地をもち、かつ領地も広い藩です。このような藩は関ヶ原以前は豊臣方であった大名が大半です。<br /><br /><br />


ですから、江戸と大阪という幕府の直轄地からは遠いところに封ぜられたわけです。<br /><br /><br />


そしてかつ、国力を衰退させるために、参勤交代を課しましたから、外様大名はかなり財政的にもきつかったはずです。<br /><br /><br />


そんな大名の中には反乱を企てるものも多かったのでしょう。<br /><br /><br />


反乱を企てるためにはまずそのための道具を江戸に搬入します。<br /><br /><br />


ですから、江戸に入ってくる鉄砲には幕府は神経を尖らせていたわけです。<br /><br /><br />


そして、人質として妻子を江戸に滞在させましたから、その妻子たちが江戸を出て国に帰ろうとすることがあっては一大問題だったのです。<br /><br /><br />


いっけん幕府の権威のもとで戦国の世も治まったかと思われますが、内情はそうでもなかったようです。<br /><br /><br />


ですから、三代将軍家光のあとは、幕府は下り坂のいっぽうだったともいわれるゆえんです。<br /><br /><br />


もっとも「出女」のほうは、幕末にはかなり緩和されました。これも幕府の権力の衰退をあらわしていますね。]]></description>
<link>http://tpip.info/2008/02/post_72.html</link>
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<pubDate>Thu, 28 Feb 2008 13:54:00 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>伊能忠敬の日本地図</title>
<description><![CDATA[伊能忠敬は下総国（元千葉県佐原市）の商人で、名主でした。
<br /><br />

５０歳で家をゆずり、西洋の天文学や測量学などの勉強を始めました。
<br /><br />

５６歳から７２歳までの間に、日本全国約４万kmを測量して、正確な日本地図を作りました。
<br /><br />

現在のような測量器具はありませんから、苦心していろいろな道具を作りました。以下はそんな道具の一例です。
<br /><br /><br />

くさり……約３０cm（たぶん１尺だと思われる。というのも１尺は30.3cmなので）の鉄棒を１０本つないで距離を測った。
<br /><br />

量程車……箱のようなものに車をつけ、車の回転で距離をはかる道具。車の周の長さが分かっていれば、何回転したかで距離を出すことができる。車を使った距離の測り方自体は古代エジプト時代から行われていた方法。
<br /><br />

象限儀……車輪の一部を中心角９０度くらいで切り取ったもので、これで星の高さを測った。星の高さを測ることで、緯度が計測できる。
<br /><br />

彎か羅鍼（わんからしん）……方位をはかる道具
<br /><br /><br />

測量で使われた道具は、当時としてはかなり進んだもので、それも苦心して制作したものでした。
<br /><br />

測量に際しては、沿道の諸藩から大勢の手伝いが出されました。幕府としても一大事業だったわけです。
<br /><br />

そうやって作られた日本地図は現在の地図とほとんど変わらないほど正確でした。
<br /><br />

伊能忠敬旧宅（マーク１）と伊能忠敬記念館（マーク２）
<iframe src="http://chizuz.com/map/iframe/iframe.php?id=24129&h=400&w=400" width="430" height="430" scrolling="no" frameborder="0"></iframe><br>
<font size="-6">powered by <A href=http://chizuz.com/ target="_blank">地図Ｚ</A></font><br>]]></description>
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<pubDate>Mon, 25 Feb 2008 14:50:29 +0900</pubDate>
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<title>湯島聖堂</title>
<description><![CDATA[上野から観光名所をたどっていくと、上野公園、不忍池、湯島天神、神田明神、湯島聖堂という具合になるかと思います。
<br /><br />

ですから湯島聖堂を訪れる観光客は大変に多いのですが、いったい湯島聖堂とはなんなのでしょう？
<br /><br />

いっけん、寺社風にも見えますが、これは孔子廟です。
<br /><br />

つまり、孔子様を祀ってある場所ということになります。
<br /><br />

江戸時代五代将軍徳川綱吉（犬公方として有名ですね）のとき、上野の忍ヶ岡の林家（家康の時代から代々幕府に儒学を講する家柄として続いていました）の家塾弘文館を湯島昌平坂に移した際に、大成殿を設けて孔子を祀ったのが初めです。
<br /><br />

その際に林家の家塾も聖堂学問所として整備されました。
<br /><br />

大成殿としては、孔子の生地中国曲阜（きょくふ）にあるものが一番有名だと思います。
<br /><br />



湯島聖堂の場所
<iframe width="425" height="350" frameborder="0" scrolling="no" marginheight="0" marginwidth="0" src="http://maps.google.com/maps?hl=ja&amp;client=safari&amp;q=%E6%B9%AF%E5%B3%B6%E8%81%96%E5%A0%82%E3%80%80%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%83%BD%E6%96%87%E4%BA%AC%E5%8C%BA%E6%B9%AF%E5%B3%B61%EF%BC%8D4%EF%BC%8D25&amp;lr=&amp;ie=UTF8&amp;ll=35.710698,139.770641&amp;spn=0.008347,0.014591&amp;z=14&amp;iwloc=A&amp;cid=35700718,139766419,2950283372963244659&amp;output=embed&amp;s=AARTsJq6ut_qgA47M7X3TDMJB4uAzs8g_Q"></iframe><br /><small><a href="http://maps.google.com/maps?hl=ja&amp;client=safari&amp;q=%E6%B9%AF%E5%B3%B6%E8%81%96%E5%A0%82%E3%80%80%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%83%BD%E6%96%87%E4%BA%AC%E5%8C%BA%E6%B9%AF%E5%B3%B61%EF%BC%8D4%EF%BC%8D25&amp;lr=&amp;ie=UTF8&amp;ll=35.710698,139.770641&amp;spn=0.008347,0.014591&amp;z=14&amp;iwloc=A&amp;cid=35700718,139766419,2950283372963244659&amp;source=embed" style="color:#0000FF;text-align:left">大きな地図で見る</a></small>]]></description>
<link>http://tpip.info/2008/02/post_70.html</link>
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<pubDate>Mon, 18 Feb 2008 10:39:34 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>江戸っ子</title>
<description><![CDATA[江戸っ子という言葉が生まれたのは化政文化時代のようです。
<br /><br />

元禄文化というのは、上方（京都大阪方面）が中心でしたが、化政文化は江戸が中心の文化です。
<br /><br />

「いなせ」とか「粋」などという独特の気質を持つ町人が江戸っ子で、江戸で生まれ育った根生いの者のことをさします。
<br /><br />

彼らを中心に江戸文化が生み出されました。
<br /><br />

また、「三代続いた江戸っ子」という表現がありますが、これは「江戸っ子の気質になるには三代必要」という意味で、京都十代、江戸三代、大阪一代という具合に使われる言葉です。
<br /><br />

「三代」にはとくにこれといった理由はないようですが、一説には、江戸幕府を完成させるのに、家康、秀忠、家光と三代かかったというところに由来しているというはなしもあります。]]></description>
<link>http://tpip.info/2008/02/post_69.html</link>
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<pubDate>Mon, 18 Feb 2008 10:13:48 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>五稜郭</title>
<description><![CDATA[今では五稜郭は公園になっています。
<br /><br />

戊辰戦争の幾多の戦いの中でも、鳥羽伏見の戦いとならんで五稜郭の戦い有名な合戦の舞台になりました。
<br /><br />

五稜郭は日本初の西洋式の城です。
<br /><br />

幕臣武田斐三郎（あやさぶろう）の設計で、1857年に着工し、1864年に完成しました。
<br /><br />

ヨーロッパ風の星形城塞が特徴的ですが、長野県佐久の竜岡城も同型です。
<br /><br />

<iframe src="http://www.panoramio.com/plugin.php?lt=41.796933&ln=140.757103&z=1&k=1" width="400px" height="400px"></iframe>]]></description>
<link>http://tpip.info/2008/02/post_68.html</link>
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<pubDate>Sun, 17 Feb 2008 11:36:25 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>時代劇と時代考証</title>
<description><![CDATA[時代小説といわれるものは、結構時代背景をこまかく調べてあるものが多いです。
<br /><br />

でも、それを映像化するとちょっと状況が変わってしまうのがつねですね。
<br /><br />

たとえば、水戸黄門。
<br /><br />

これの原作は水戸黄門漫遊記だと思ってよいと思うのですが、時代は当たり前ですが元禄時代の前あたり。
<br /><br />

だって、生存年代が1628ー1700ということですから、晩年ほぼ徳川綱吉とかぶっている。
<br /><br />

だからドラマを見ていてもまれに綱吉が出てくる場面があるのだけれど、生類憐れみの例についてはふれられないね。
<br /><br />

で、話はもどって時代背景。
<br /><br />

綱吉の時代ならば、元禄時代からその前くらいなはずなんですね。
<br /><br />

なのに、水戸黄門のドラマのセットというのは化政文化期というから問題。
<br /><br />

といっても、娯楽で見る分には全然問題ないですけれどね。
<br /><br />

元禄文化と化政文化では建物の雰囲気も全然違うのだけれど、ドラマの撮影をしている京都太秦の撮影所のセットは化政期をモデルにして作ってあるからそうなってしまうわけです。
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時代考証まではっきりとさせるようなセットを作ることは不可能ではないらしいですが、かなりの予算がかかることもあって、妥協しているみたいですね。
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だから、時代考証にくわしい人が見ると、「あれ？」と思う場面が多いのだとか。
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つまり、京都太秦の撮影所で撮影される時代劇は、みーんな化政期のセットで撮られているわけです。]]></description>
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<pubDate>Fri, 15 Feb 2008 19:54:48 +0900</pubDate>
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<title>金が海外に流出した理由</title>
<description><![CDATA[江戸時代、日本でも金貨、銀貨は使われていましたが、その相場が海外とは違いました。
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鎖国をしているうちは、金相場や銀相場はそれほど気にかけなくてもよいのですが、開国後はそうはいきません。
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江戸時代、日本での金の価値は外国よりも安く、一方銀は外国よりも価値が高かったため、外国の銀貨を日本の金貨に交換する外国人が急増しました。
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具体的には、金貨と銀貨の交換比率の差から、４ドルの銀貨が三枚の小判になり、これを外国で換金すると１２ドルになったそうです。
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こうして、日本国内の金はどんどん海外流出していきました。
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その結果、幕府は金の流出を防ぐために金の含有率の低い粗悪な貨幣を鋳造することになり、国内の貨幣価値が下がりました。
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貨幣価値が下がると物価は上昇します。これがインフレという状態です。
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幕末はこうして特に庶民の生活が圧迫していきました。]]></description>
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<pubDate>Thu, 14 Feb 2008 07:32:04 +0900</pubDate>
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<title>開国と経済の混乱</title>
<description><![CDATA[日米和親条約と日米通商修好条約を経て開国した日本ですが、なにしろ２００年も鎖国していたわけですから混乱して当たり前です。<br /><br /><br />


貿易を開始すると、日本は自国に足りない毛織物、綿織物、武器などを輸入する代わりに、生糸や茶などを輸出しました。<br /><br /><br />


生糸の輸出はかなりの外貨を日本にもたらしました。<br /><br /><br />


しかし、関税自主権がないので、国内の綿製品の産地は大打撃をうけます。<br /><br /><br />


また、生糸や米は商人に買い占められて品不足になりました。その結果庶民の生活は苦しくなります。<br /><br /><br />


また、金と銀の交換価値（金相場、銀相場）が国外と国内では差があったので、どんどん金が外国に流出してしまうということが起こりました。<br /><br /><br />


すると、幕府は金の流出を防ぐために、粗悪な貨幣を鋳造することになります。<br /><br /><br />


粗悪な貨幣が世の中で出回ることは、イコール貨幣の価値が下がることですから、結果的に物価が上昇し、ひどいインフレが引き起こされました。<br /><br /><br />


現在でもそうですが、貨幣というのは国家経済の基盤をなすものですから、貨幣の価値が一定しないと国家経済がゆらぎ混乱してしまいます。ですから、今では通貨偽造罪というのは大変罪が重くなっています。貨幣というのはそれくら国家経済にとって重要なものなのです。]]></description>
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<pubDate>Thu, 14 Feb 2008 07:17:14 +0900</pubDate>
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